atom_nakazawaの日記

コンテンツと、テクノロジーと、寂しさという根源について

失恋を「これで自由になったね」と慰められるといつも困る

去年の秋に長く付き合っていた彼女に振られた。

1LDKの心地よい広い家に一人で住むようになった。

最近なんだか「自由」という陳腐な言葉が頭を過ぎる。

 

振られたと報告すると、十中八九、いろんな友人が、そして両親すらも、「まあこれで自由になったと思って好きに過ごせばいいじゃない」と慰めてくれる。その気持ちはありがたいのだけど、付き合っていた時に生じる不自由さを嫌いではなかった、というか付き合っていた時に対して不自由さを感じていなかった為に、いつもモヤモヤしながら薄く笑ってその慰めを受け止めていた。

 

自由なる不定形なものを確かに感じられた経験は人生で2回くらいしかなかったように思う。

 

 

一つは、高校の運動会のとき。

我が母校は運動会にたいそう熱心で、毎年生徒だけでルール制定から運営、応援歌から下級生の指導まで全て行なっていた。高2の夏になると、来るべき来年の運動会に向けて、各々に何らかの役割が振られる。私は、毎年グラウンドにそびえる巨大な絵画、各クラスの応援桟敷のシンボルとなる5.4×7.2mのアーチと呼ばれる絵を作成する責任者となった。

クラスの皆と協力して、モチーフの決定から、キャンバスとなるベニヤの組み立て、ペンキで描画作業まで行うのは今振り返ると楽しい思い出だが、当時の私には一つ大きな問題があった。

私は、まともに絵を書いたことがない。

絵を描いたことがないのに、運動会当日に数千人の目にさらされる巨大な絵を描く責任を請け負ってしまった。他に適任もいないし、君ならなんでも出来そうだよね、という謎の信頼があったのだろうが、当時は死に物狂いで絵の勉強をして、美術部の先生や生徒に教えを請いに行ったことを覚えている。おかげで校内の成績順位が100番くらい下がったのも覚えている。放課後は絵を描き、家に帰って資料を漁りながら夜遅くまで絵を描き、授業中はうつらうつらしながら絵を考える。これほど一生懸命になったことは未だかつてなかったかと思う。進学校であった母校の受験の時でさえ、あまり根を詰めた記憶はない。

まあ、何はともあれ、理想通りの絵が完成し、運動会前日にグラウンドに組み立てられたアーチを目の当たりにしたあの午後の感動を表すには、なぜか自由という言葉が一番ふさわしいように思えた。

 

 

もう一つは、サンノゼインターン留学をしたとき。

苦しみながら卒論を仕上げ、内定先の研修が始まるのも7月だった私は、ぽっかり空いた5ヶ月ほどを海外で過ごすことに決めていた。

最初の3週間を友人たちとヨーロッパ周遊に、次の3ヶ月をシリコンバレーのとあるtech startupでインターン、その後は気分に任せて旅行しようと期待しつつ考えていた。今から思えば出発する前にはほとんど気付いていなかったが、海外に出るというのは、茫漠とした孤独を常に心の片隅に置くことだった。

一番辛かったのはヨーロッパ周遊から帰国し、その日のうちにアメリカに発つ機内であったかと思う。気のいい友人と、そして好きな女の子と旅行していたヨーロッパから一転、たっと一人で初めて3ヶ月暮らさなければいけない外国に向かう機内。鈍感な私すらもびっくりするくらい寂しさを感じた。その激しさをいつでも思い出せるよう、機内で配られたアイマスクは今もお守りがわりにスーツケースのポケットに入っている。

到着してからも圧倒されることが多かった。まず、乗り継ぎのどこかでロストしたのか、スーツケースが空港に届いていなかった。次にアメリカの広さを甘く見ていた。自転車とバスだけで動ける範囲は大変限られていて、なんとかして自分の車を確保する必要があった。最後に、これは自己責任なのだが、Airbnbで最初の1週間の宿だけ借りていた私は、早めにこれから3ヶ月暮らす家を探さねばならなかった。

慣れない英語と生活習慣、着いた翌日から始まった仕事(pythonでのデータ分析と聞いていたのに、Cで組み込み開発をしていた。まじかよ)で心の余裕を完全に奪われつつ、シリコンバレーのカラッとした晴天に現実感を無くしていた週末、ようやく車を借りることに成功した。謎の達成感に襲われた当時の私は借りたばかりの白いフォードで、高速に乗り、1時間半かけてサンフランシスコへ車を走らせていた。

サンフランシスコとシリコンバレーでは、全く天候が違う。いつもカラッと晴天なシリコンバレー地域と比べ、サンフランシスコは霧の街だ。マイクロクライメイトと呼ばれ、同じサンフランシスコでも局所的に天候が異なることも多い。サンフランシスコに近づくにつれ、雨と風が強くなっていった。水はけの悪い高速を、しぶきを巻き上げながら爆走する車に追随していた時、突如雲が途切れた。視界が開けた。

坂に建ち並ぶビクトリアンハウスと青い海。

あの時の叫びだしたくなる疾走感こそが自由なのではないかと、これが自由の国たる所以なのかと、強く感じたことをこの先忘れることはないだろう。

 

 

義務教育を受けていた時には、よく自由と責任というフレーズが使われていた。教師としては使い勝手がいい言葉なのだろうが、自由とペアになる言葉は制約という方が実感に一致する。制約が、束縛がないと自由を感じられないというのは、やや動物的に感じるが皮肉な真理なのではないかと思う。

「自由と制約」というと、Emily Elizabeth Dickinson の静かで情熱的な詩を思い出す。

成功をもっとも心地よく思うのは
成功することのけっしてない人たち。
甘露の味を知るには
激しい渇きがなければならぬ。

今日敵の旗を奪った
くれないに映える軍勢の誰ひとりとして
勝利とはいかなるものか
はっきりと定義することはできぬ

戦いに敗れた兵士――死に瀕し――
聞こえなくなっていくその耳に
遠くの勝ち誇った歌声が
はっきりと苦悶にみちてどよめく兵士ほどには!

亀井俊介 編『対訳 ディキンソン詩集―アメリカ詩人選(3)』(岩波文庫)より

 

 

失恋してから自由を感じることがないのは、交際していた時に大きな制約を受けていなかったためだろうか。元彼女さんは自分の存在が私の行動を規定することを嫌っていたように思う。私の頭の中ではもう元彼女さんは死んだことになっている。これで自由だね、と言われると彼女の名誉を傷つけているようで申し訳なく感じるので、同意も反論もせずに薄く笑っている以外に答えようがないなあと思う。